当家の由縁・万年山 松岳寺 永代供養
元和五年なか(1619年)、福島正則改易蟄居。 重臣であった 小山善介常久も多くの家臣と共に広島の地を追われ避散する。善介は中国山中へ妻と共に逃避。そして備中庄 川上郡大賀村下刈に入ったところで当村大庄屋であった当家に取り子取り嫁で養子として入籍。その後当地で算勘手習いの寺子屋運営で地域に貢献、その地において知遇を受ける。とあります。
改名を為し、松室善入斎常久と名乗り、その倅 松室五郎衛門盛常と入縁入婿している。
尚 家紋は[丸に橘]です。
ここ(以上)のところから記された古文書が残っており、郡誌他に記載され当家の過去が読み取れる。
そして大賀村野呂(現川上町下大竹)には当時(400年近く前)からの傘付き墓石がひっそりとだが大量に残されています。
松室家次男分家松下姓を名乗り、当家もこの地に永代供養され眠ることになります。(系図より)
万年山「松岳寺」
総本家が祀られるお寺ではありませんが、同じ地域にある曹洞宗のお寺。
お寺が時代を経て余りにも古びて来て最近改築されたました、現在は庫裏も再建されつつあります。
山の懐にすっぽり包み込まれたような素晴らしい環境にあるお寺です。
気がかり?なことが一つあります。この地 現在多分に漏れず高齢化が極端に進み過疎となり大変な状況なのです。住職さんの話によれば過去にも松岳寺無住の時期が一時あったと仰っていました。
時代が変われば何時何が起こるかわかりませんね。いいですよ、私は選んでこの地に逝くわけで、実は気がかりではないのです。
『余談』
福島正則の没後お家は断絶と言う事になっていますが、おっとどっこい福島正則に別腹(妾腹)があり姫が授かっていた。その姫は京で密かに宮中へ宮使え、適齢になった頃、さる方に輿入れされている。
そのさる方とは 千利休三世 伯宗宗旦(げんぱくそうたん)(1578-1658)の子 (次男)一翁宗守に(この時三千家に分かれた内のその一つ武者小路官休庵 初代)嫁がれている。官休庵とは
なお 京 武者小路千家のお庭には福島正則をお祀りする祠(お稲荷様)が現存し、毎年祭礼も行われています。
なぜお稲荷様にしたかについては福島正則の娘と言うこともあり「当時の徳川家への配慮から大っぴらに供養出来ず、お稲荷様ということで密かにお祭りをしたのだと思います。言い伝えです。」と 官休庵十四代当主千宗守さんからお会いした際、直接お聞ききしました。
また、日本文化 特に茶道史に造詣深い熊倉功夫先生にお目にかかった際、この事をお尋ねしたら「そのようです」と仰っていました。
十四代宗守様から、年に一度お祭りをしていますのでぜひお越しくださいと言って下さいましたが、未だお伺い出来ていません。
つまり官休庵は私の主家・・・宗守様は私のお殿様と言う事になります。
平成20年8月、このお寺に帰檀をさせていただきました。父が戦時中勤務で転々としており、岡山の曹洞宗に一時入壇していました。
早速和尚様が岡山までお越しくださり、お盆供養をしていただきました。感慨深いものがあります。
平成20年8月、本堂の隣にある位牌堂の一角に入洞させて頂くこととなりました。
21年は父の50回忌にあたり、永代供養は父のためにもいい供養となったのではと思います。
加えて末孫の繁栄を祈ります。